赤が足りない

政治的な話しではなく、色のお話です。

mixiの日記に書いた記事ですが、
こちらにも再掲。

マイミクの方からコメントをいただいていますが、
それは省いてBeltaのコメントだけご紹介しますね。


「赤が足りない」

やさしさ、思いやり。
人のいやがることはしちゃぁダメ。
わがまま言うより、我慢が大切。

とっても大切なものだと教えられてきたけれど。
確かに大切なものだと思うけど。

でも、それだけじゃぁ何かが足りない。

たぶん、それは赤。

生き物、動物としての本能。

自分の中の野生。

それを知らずに、自分をコントロールしようったって、
それは、無理。

目覚めろ、赤。

赤が足りない。

生き物としての本能や野生。

とっても大切だと思うんです。

暴走しちゃうと「人間」から離れちゃうけど。

現代人って、なんとなく、
そういったものを押さえて(無視して)
きれいにまとまろうとしている感じがするんです。

自分の中に欲や野生があるということを知って、
それを認めて、コントロールする。

時には解き放つ(状況に合わせて)

それが足りない人が多いんじゃないかと。

いつも「善い人」である必要はないんじゃないかしら。

赤は本能、生きる力みたいなものです。

時にセクシャリティ、時に暴力的で、時にわがまま。
生きるためにあらゆる手段をつくします。

人間であることは、それを認めて付き合うこと。
押さえ込んで、無いものにしちゃうことじゃ、ないんです。

わがまま(だとご自分で思っていること)やってもいいんですよ。

押し殺すのではなく、やり方を考える。

そんな感じでしょうか。

ここまで—

最近、世の中全体「赤が足りない」ように感じています。
正確に言うと、赤を無理に押さえ込もうとして、
ゆがんだ形で表出しているような。

赤が意味するのは、野生、本能、生き延びる力。
生きようとするあまり、暴力にも走る。
動物的。

でも、みんな持っています。
人間やっていますが、基本は動物なのだから。

それを、押さえて成り立っているのが人間社会。
だから、赤のエネルギーが少ないヒトは、
「いい人」「社会的な人」ということに。

確かに赤を暴走させちゃまずいけど、
「無いもの」としたり、「いけないもの」とするのは、
どうかしら。

特に子ども時代。

チャクラの考えでいけば、ヒトは赤から出発するのに、
子どものころから、「いいこ」を要求されて、
そのまま大人になっちゃうと赤を意識する時がない。

ホントは、牙も爪もあるのに、それを知らないまま。

すると、大人になってから、
押さえ込まれていた赤が耐えきれずに、
ゆがんで出てくることがあるのです。

何かを求めているのに、どうしたらいいか分からない。
情熱を傾けられないもどかしさを感じたり。

そのエネルギーが、他人に対して向かうと
暴力的になったり、攻撃したり。

それもできないときは、牙も爪も自分に向かう。

赤のエネルギー、
みんなもっと真剣に考えても良いんじゃないかしら。

人の中にあるってこと。
みんな内に秘めているってこと。
赤!

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